女心と秋の空




11月3日。空は生憎の曇り。
お盆に温かいお茶とおにぎり、心には淡い思いを抱きながら、私は今日もこの部屋の障子を開ける。

『失礼します。お茶を持ってきました。』
『あぁ、わりぃな。』

私の方など見向きもせずに、彼の意識は机の上に溜まりに溜まった書類の山に向けられている。
よほどストレスが溜まっているのであろう。
眼の下には真っ黒な隈ができていて、心なしか頬も痩せたように思う。

白い鍾乳石のような灰皿は、すでに容量オーバーになっていた。
私は何も言わずに、ほぼ意味をなくしたそれを取り、
重すぎる荷物をゴミ箱に捨て、役目を取り戻させた。
本当はその周りにこぼれている灰の処理もしたいのだが、
何枚も積み重ねられた調査書の上にも被害を及ぼしているものだから手が出せない。
私はただの女中なので、隊士の勤務に関係あるものに触れてはいけない気がして躊躇われる。

他にすることはないかと部屋を見渡す。
敷きっ放しの布団がしなびているように見えたので、
今日は少しくらい気持ちよく眠りについてもらおうと、そちらへと歩を進めた。
うわ、この布団煙くさい。
そのキツイ匂いに少々顔をしかめながらも、安眠のためと自分に言い聞かせ、気を持ち直した。

部屋の中を結構自由に行き交っているのに、相変わらず彼の視線はこちらには注がれない。
ここまで意識されないもの虚しいものだ。
誰が何のためにここまで尽くしているのか、この男は考えたことがあるのだろうか。
いや、考えたことなどないだろう。
私のことを少しでも気にかけてくれているのなら、私が部屋に入る際にこっち見てくれたりしてもいいものだ。

ん?ちょっと待てよ。
もしかしたら私の気持ちなどとっくに感づいていて、
脈を持たせないように、私が期待しなくてもいいように、
この加速する気持ちを停止させようとしているのかもしれない。
だって、色男で有名な人なんだもの!女の扱いには慣れているはず。

でも、つれない態度を取られ続けても、報われなくても、つい面倒を見たくなってしまう片思いの悲しい性。
しかも私、突き放されると燃える方なんだけど。
優しくされるのもキライじゃないよ。
だけど甘すぎるだけじゃ物足りないの。
諦めさせるためにそうしてるなら、逆効果なんだけどなぁ。

どうもマイナスの方向にしか話が進まない自分の思考回路が嫌になる。
だけど、一方通行しかできない状況なのだから仕方ない。
思いっきりため息をつきそうになったのを、喉の辺りでぐっとこらえて勢いよく布団を持ち上げた。
が、すぐにその行為を後悔した。

一気に布団を全セット手に取ったため、前が見えない=歩けない。
でも、今更布団を畳の上に戻すわけにも行かない。
おそらくこのまま手を離したら、目の前の紙の山がザーっと四方に舞ってしまう。
持ち上げた際に起きた風でひらひらと踊って地に降りた書類が、私の足元に堂々と乗っかっている。
手も足も動かせず、その場に立ち尽くす。

惨めだ。
何したいんだろう、私。

思わず泣きそうになるのを必死にこらえる。
時計の音と共に、この部屋を満たしていたポールペンが硬質な机の上を滑る音が途切れる。

『ハァ。…何やってんだよ。』
ハッとした。彼の近づいてくる足音がする。こんな形で気にかけて欲しかったわけじゃないのに。

『ご、ごめんなさい…。』
震えを悟られまいと必死に絞り出した声は、まるで蚊の鳴くようなものだった。
頭を下げようと思うが、タバコの匂いが染み付いた布団が邪魔で、この申し訳なくて仕方ない気持ちは態度でも示せない。

もう終わった。
ただでさえあんまり良いイメージ持たれてなかったのに。

もう一度マイナス思考の迷路の入り口に立った私の視界が、いきなりクリアになった。

『ちょうど布団干そうと思ってたトコだ。気分転換に身体を動かそうともな。』

ぶっきらぼうにそう言い、少し乱暴に、彼は私の動きを拘束していた原因を取り去った。
両手の塞がった彼は行儀悪く足で障子を開け、中庭に転がっている草履をひっかけて、大胆に竿に布団をかけていた。

ほら、そうやって優しくするから私の気持ちはどんどんスピードをつけていく。
あなたのその絶妙な匙加減が、私の気持ちを更に美味しくさせていく。
軽く触れた指先から伝わった自分以外の体温が、身体中を侵食していくのがわかる。

モヤモヤとした心の渦は、彼の些細な行動一つで簡単に消化された。
彼の何気ない言葉や仕草が私に向けられるだけで、ほんの小さな幸せだけで、私の心は晴れやかになる。

あっという間に布団を干し終えた彼は私のほうに向き直り、ぐーっと背伸びをした。
長い間机に向かっていたのだろう。関節がボキボキと鳴っている音が響く。
『いい天気だな。本格的に休憩するか。』
柔らかな秋の太陽の光を一身に受けて、笑顔でそんな提案をする彼はとても幼く見えた。
『はい。』
微妙な距離を保ちながら、私は彼の横に腰を下ろす。
障害物のなくなった、透き通るような空を眺めながら、明日も晴れたらいいなと呑気に思った。