青と白
今日が何月何日かなんてはっきり言って把握しちゃいねぇが、昨日山崎が持ってきた報告書に
“11月1日調査終了”
と記されているので、本日はおよそ11月3日くらいだと分かる。
ここ何日間か続いていた俺の集中力を奪ううざったい水音が、今日はしない。
『失礼します。お茶を持ってきました。』
『あぁ、わりぃな。』
そちらを見なくても誰かなんてすぐ分かる。
廊下をひたひたと歩く音からも、障子を開けるためしゃがむときにパキッとなる膝の音からも、すっと通るクリアな声からも。
耳に入る些細な情報だけで、俺の本能が瞬時に『こいつだっ!』と認識しているのだ。
今日で徹夜3日目。
見廻りと厠と風呂以外、ここ最近ずっと部屋に籠もりっきりだ。
飯はこいつが持ってきたものしか食ってねぇ。
そんな生活を続けていたおかげで、目を通さなければならない報告書も、あと残り数枚だ。
最後の一服と思い、胸に手を当ててみるが、意中の品物は生憎切れてしまったようだ。
ストレスで口が物寂しくて、ついつい手を出してしまっていたからだろうか。
自分のためにも、こいつのためにも止めようとは思っているんだが、
身についた習慣とは恐ろしいもので、無意識のうちに口に携えてしまっているのだ。
満たされない思いをどこにやろうかと思索にふけるうちに、こいつは黙々と俺の身の回りのモノを片付けていく。
俺自身のプライバシー、新撰組の内部情報など触れて欲しくないものには手を出さない。
俺の気が立っているとき、忙しくて相手にできそうにないときには下手に話しかけてこない。
そう言った点で、こいつはかなり出来た女だと思う。
正直顔はそんなに美人ではないが、器量はあるし、頭もいい。
そんで笑った顔もかわいい。(何言ってんだ、俺。)
今まで俺に世話を焼きすぎる女は腐るほどいたが、そいつらの行為はほとんど俺への押し付けで、
正直迷惑以外の何物でもなかった。
裏心のある親切心ほど、おそろしく邪魔なものはない。
こいつはいい意味で空気のような女なのだ。
普段はその重要性に気付くことができないが、いなくなってしまっては困る、そんな存在なのだ。
こいつが毎日部屋の掃除をしなければ、ここはきっとカオスになっていたことだろう。
こいつが毎日部屋に訪れてくれなければ、俺はきっと書類を片付けることが出来なかっただろう。
口には気恥ずかしくて出せねぇが、こいつには感謝しても仕切れねぇくらい感謝している。
ふと萎びた布団が目に入る。
あぁ、仕事を終えた今日くらいはフカフカの布団で眠りたいもんだ。
再び書類に目を向けてそんなことを呑気に考えていたら、
あいつは俺の心を読んだかのように、一直線にそこへ足を運んだ。
すげぇな、こいつ。エスパーか?
驚くと同時に、考えていたことが同調できたのかなと、喜びで顔が綻ぶのが分かる。
自分でも意外なほどの乙女チックな思想に、少々面食らいながらも、
そのニヤけた絶対表には出さない。否、出せない。
これは俺のプライドだ。
同じ空間を共有できているだけでこんなにも気が落ち着くのは、
きっと俺がこいつに対して心を許している証なのだろう。
世間ではこういった感情を“恋”と呼ぶ者もいるようだが、全くその通りだと思う。
そんなことを考えていると、ガバッと布団を持ち上げる大胆な音が聞こえた。
その勢いにより、俺の目の前の報告書の数枚が風に舞う。
それの行き着いた先は、どの女中も着ている矢絣の着物から覗いた、白い足の甲の上だった。
視線を下から上へと移動させれば、こいつの顔は俺の布団で隠されている。
つまり、一歩も動けない状況になってしまっているのだ。
何してんだ、こいつ。
いや、やりたかったことは何となく分かるんだが、何も一気に取り掛からなくてもよくねぇか?
仕方ねぇなぁと思いながらも、最後の一枚を確認し終えた俺はボールペンを机の上に放り投げた。
『ハァ。…何やってんだよ。』
いつもは要領いいくせに、ときどきおっちょこちょいな一面を垣間見せる。
そんなギャップを愛しいと思ってしまう俺は、いろいろと重症かもしれない。
『ご、ごめんなさい…。』
こいつより幾分か身長が高い俺からは、こいつの戸惑った顔がよく見える。
普段はクールな印象で通っているこいつの焦る様子は、何だか男心をくすぐるものがある。
水気を多く含んだ目を伏せているのが何とも色っぽい。
一度その姿を視界の中心に収めてしまうと、ほんの小さな仕草や表情の変化から目が離せなくなってしまう。
くそ、こうなるから出来るだけ見ねぇようにしてたっつぅのに。
こんな態度を許しているのは俺だけだと確信させてほしい。
他の男にはそんな顔見せるんじゃねぇと牽制してしまいたい。
そんな黒い考えが心を支配する前に、俺はできるだけ無愛想に、そしてさり気なく、
こいつの両手から諸悪の根源を奪い取った。まぁ、俺にとってはこいつと触れ合ういいきっかけなのだが。
『ちょうど布団干そうと思ってたトコだ。気分転換に身体を動かそうともな。』
こいつは分かっているのだろうか。
俺が部屋に入れることを許している唯一の女中は、お前だということ。
少しでも困っていれば助けてやりたいと思う女は、お前だけだということ。
乱暴に触れた指先が、柄にもなく火照っている。
俺はいつからこんなに初心になってしまったんだ。
悶々とした思いを蹴散らすために、一心不乱に布団を竿に掛ける。
思ったより重労働な布団干しを終えた俺は、晴れ渡る空に向かって両手を掲げる。
体中の収縮していた筋肉が、待ってましたとばかりにぐーっと伸びるのを感じた。
『いい天気だな。本格的に休憩するか。』
こいつが部屋に来たときからずっと思っていたことだが、今思いついたことかのように言ってみる。
こいつは案の定、少し驚いた表情で俺を見ているが、その目はすぐに優しいものへと変わった。
『はい。』
ただでさえ細い目を更に細めて笑う。
人一人入るくらいの隙間を開けて、俺の隣に控えめに腰掛けた。
俺の横で痛そうなくらい顔を上げ、幸せそうに透き通る青を見つめている。
少し女々しいかもしれないが、明日はこの距離をもっと近づけようと、空にばかり注がれる視線を独占してやろうと、
何となくそんなことを思った。