月光



★第19話 紅



泣いても落ち込んでも辛くても、朝5時にきっちり目は覚める。
仕事場にも遅れることなく到着。
真面目な自分に感服する。

一限に出席しないことで有名だった私が、こんなに勤勉に働くとは思っても見なかった。
“仕事”もつ社会人と、“自分自身でいっぱい”の学生との責任感の違いなのかもしれない。

そして、心のどこか端っこの方には、大人しく真面目に取り組んでいれば、
信用してもらえると期待している私がいる。
浅はかかもしれないけど、悪いことも何もしていないのに疑われるのはごめんだ。


ガラス窓にはポツポツと水滴が、厨房と外気との温度差を明白に表している。
味噌汁の塩っ気のあるいい匂いや、焼き鮭の香ばしい皮の匂いが厨房を満たす。
この匂いだけでお腹がいっぱいになってしまう。

下準備を終えた私の仕事は、ひたすら使用済みの食器や鍋やフライパンを洗うことだ。
若い隊士の2人組から、空になった食器を預かる。
ほとんど全員の隊士が朝食も昼食も残さず全部平らげてくれるので、調理している側としてこんなに幸せなことはない。
まぁ、私は作ってないんだけど。


『見た?今の。』
『見た見た。若い女の手じゃねぇよな。』


プチッ。

少し錆付いた銀色のステンレスの流しに、水とともに排水溝への軌跡を描く幾筋もの紅い線。
それが自分の身体中を巡っている液体だと認識するのに、そんなに時間はかからなかった。
ついに肌も裂けてしまったようだ。
表面から生々しい雫を溢している。

たった一日分だけど、心より身体の方が我慢強いみたい。
壊れるのは簡単。
脆く崩れ去るのは一瞬。

一度その傷を確認してしまうと、そこに神経を集中させてしまうので、だんだん痛み出す。
洗い物のペースが明らかに下がった。

ちゃん、もう時間だけど。』
『あ、すみません!!今すぐ片します。』

目の前には、手の傷を庇うように水を避けていたせいで、積み重なったお皿の山。
それを見て、申し訳なさそうに呟く料理長のおばちゃん。
『一人で大丈夫かい?』

本当は頼りたい。縋りたい。泣き出してしまいたい。
本心を隠して、出来るだけ上手に笑顔を貼り付ける。
『はい、平気です。気遣いありがとうございます。お疲れ様です。』


ピリッと痒い傷みを感じながら、溜まっている食器を一つ一つ丁寧に洗い終える。
腰に掛けている真っ白な手ぬぐいで、冷たさで少し変色してしまった濡れた手を包み込む。
そっと触れただけで色づいた紅が、やけに毒々しい。

昨日泣いたんだ。
もう泣けない、泣かない。

悔しさと遣る瀬無さでどうかなってしまいそうな感情を抑えるため、
力いっぱい握り締めた手の平には、真紅の涙がじわりと滲んだ。



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