月光
★第32話 全神経総出陣
場所は変わって、ここは裏路地に入ったときから目に入っていた小さな呉服屋さん。
密かに気になっていたので、勇気を出して行っていいかと尋ねたところ、
意外や意外、悩む様子もなくいいよと返ってきた。
そこはかなり年季の入った呉服屋で取り扱っている商品はなかなか渋いが、古着チックで味がある。
着物の柄を引き立てたかったので、色味もデザインも大人しいものを探した。
そして白い厚手のニットの肩掛けケープ、髪飾りと合わせて牡丹のブローチ、あと白いカシミヤのマフラーの3点を購入した。
『防寒バッチリだな。』
『これは、こうするんですよ。』
そう言って、怪訝そうに私を見ている土方さんの首に触り心地の良いマフラーを掛けた。
あ、よかった。
今日着てる着流しにも、当たり前だけど土方さん自身にもよく似合う。
身長差はおよそ20cm近くあるが、すんなりと巻き終えることができた。
『好みが合わなかったり、寒くないのに迷惑だったら、ごめんなさい。』
女性用の和服しか置いていないお店だったので、男の人が着けても違和感がないデザインはこれくらいしかなかったのだ。
『これは見張りとはいえ、私の下らない買い物に付き合ってくださった土方さんに対する、私なりのお礼です。』
いろいろ道案内してくれたし、ご飯代も甘味処代も払ってくれたし、荷物とか持ってくれたし。
始めはちょっと、いやかなり憂鬱だった外出だけど、
何だかんだで好き勝手できたし、楽しいともっと一緒にいたいと思える時間になった。
自然と笑顔で、そして素直に出てくる感謝の気持ち。
『今日はありがとうございました。』
『いや、俺の方こそ…。』
深々とお辞儀をしたために、髪からするりと落ちてしまった薄い桃色の牡丹。
『あ、すみませ…』
拾おうと屈もうとしたが、それより速く、それは土方さんの手に収まった。
『ありがとうござ…』
受け取ろうと差し伸べた私の手に、それが乗ることはなかった。
不思議に思ったのも一瞬、なんと土方さんは砂を払った牡丹を、私の黒い髪に生けたのだ。
えっ、何事?!と吃驚して、土方さんの方をすごい勢いで、間抜けな顔で見る。
すぐに逸らされると思っていた彼の切れ長な瞳は、私の小粒な瞳を捕らえたまま。
静かな沈黙の中、向き合うこと数秒。
心臓はドキドキ言ってて、もう私の身体の一部なんかに収まらないくらいに激しく収縮運動をしているのに、
頭の中はそんなの知ったこっちゃないといった具合に、“あ、この空気なんかやばいかも…”なんてすごく冷静に状況を分析してる。
頬に当てられた骨ばった大きな手。
次第に近くなっていく距離。
自分以外の息が、温もりが私の肌にダイレクトに伝わる。
私だってもう21。
男女交際もしたし、手を繋いだり抱き合ったりキスしたり、それ以上のことも経験した。
何となく分かる、この空気が醸し出すこれから先の展開。
目を伏せたらお終いだ。
そう本能が私の神経に警告を送っている。
だけど私たちの距離が離れることなど全くなくて、ついに鼻と鼻がくっつきそうなくらいになってしまった。
男のくせに、マスカラを塗った私と同じくらい長い睫毛の影が1本単位ではっきり見える。
今まで気にならなかったタバコの匂いも、嗅覚がしっかりキャッチしている。
あぁ、なんかもう流れに身を任せちゃってもいいのかなぁ。
こんなにカッコイイ人とキスすることなんて、もう2度とないかもしれないし。
そんな考えが頭の中に過ぎって、ゆっくりと瞼を下ろした瞬間…。
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