月光
★第45話 雪ウサギ
雪が降った。目の前に広がる、一面白銀の世界にうっとりすることもなく、
離れにある必要最低限のものしか揃えられていない自室前の廊下で、拳を大きく突き上げる。
本日、酒解禁じゃ―――――!!!
ほうと息をつき、呼吸を整えた後、改めて庭中を見渡す。
視界を埋める純白の地は、朝の露をその身に浴び、微かに灯る陽の光によりまるで宝石のように輝いている。
雪がこんなに積もっている光景など、いつぶりに見ただろうか。
平成の東京でも雪は降らないことはない。
しかし、私たちの手の届かないはるか高い場所から舞う白い結晶は、アスファルトの地に落ちては儚く消え、
積もることなく灰色に呑まれていくのだ。
そんな闇に囚われることなく、失われることなく、また一点の曇りもなく、堆積した白にそっと手を伸ばした。
『やっぱり浮かれてるだろ。』
『え?』
『お前がこんな趣味を持っているとはな。』
『私だって年相応の娘ではありますから、雪を見てはしゃぐことくらいあります。ただ土方さんが知らないだけで。』
『…。』
副長室に入っての開口一番がこれだ。
土方さんの注意を集めたのは、お茶のセットとともに盆の上に乗せられた雪ウサギだった。
眉間にしわを寄せて、指先で突く。
結構可愛らしく出来上がったと思うのだが、やはり男女の美的センスの差異のせいか。
土方さんの表情はずっと険しいままである。
『よく呑むのか?』
何を?と返しそうになったが、おそらく今日のイベントについての話だろう。
『そんな酒呑みというわけではないですが、嗜む程度には飲みますよ。』
『なんかお前強そうだな。』
『土方さんの“強い”がどの程度なのかはわかりかねますが、弱くはないです。』
土方さんのげんなりとした顔とは対照的に、私は自称・爽やかな笑顔で淡々と言葉を紡ぐ。
『それに、こんな白銀の雪景色を見るのも久しぶりなんです。』
『そうか、まぁ羽目を外しすぎるなよ。』
『そんな無茶するように見えます?』
『いや、そういうわけじゃねぇよ。』
相変わらずはっきりしない返事だわと思いながら、空の湯呑に翡翠色の熱いものを注ぐ。
その口から、うっすらと紫煙のような湯気が立ち上る。
その蒸気でほんのり冷えた部屋も暖かくなったように感じた。
土方さんの部屋は正直寒い。
頭の方に熱が集中すると、書類整理に没頭できないからだそうだ。
一応エアコンがついてはいるが、暖かい空気というのは上に充満するもので、設定温度ほどの理想的な室温は得られない。
体感温度の違いも考えものだ。
厨房は火を扱う場所だし、おばちゃんたちの希望により足元には小さいながらもヒーターを取り付けてあった。
包丁が規則的にまな板を叩く音や、和気藹々と世間話が行き交う活気の溢れる以前の職場は、
今思い出せば、ここより快適な空間だったかもしれない。
目の前にいる男に恋をしている乙女の思想とは到底結びつかないほど自分のことしか考えていない思考に、思わず苦笑してしまう。
まぁ、これが私なのだから仕方ない。
最もこの部屋の寒さも、おそらくは人付き合いに関しては曖昧なこの男の配慮なのだと、
表皮に細やかな光の粒を纏う紅い目をした傍観者に朗らかに笑いかけた。
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