月光
★第52話 触れ合う
『それじゃ、邪魔者は退散しやすかねィ。』
『悪ぃな、総悟。』
『私も…。』
『お前はここだ。』
『…はぃ。』
そう簡単にはこの状況から脱会できないか。
とりあえず座れよと、切れ長の目が訴えている。
こんなタイミングじゃなければ喜んで座るのに。
逃げたい足を廊下に張り付けて、諦めて彼の左隣に腰を下ろす。
『…。』
『…。』
引き留めるのならば、何か話してくれればいいのに。
なんて思う私は、かなりわがままだ。
私から切り出す?
でもなんて?
“さっきは手を振り払ってしまってごめんなさい。”
でも“別にそんなこと気にしてない”って言われたら、私の自意識過剰で終わってしまうではないか。
いつもは嫌というほど出てくる屁理屈が、今日に限って浮かばない。
沈黙が痛い。
この場も振り切って逃げてしまった方が楽だったかな。
今の二人の状況と後の一人の後悔と、どっちの方が辛いのかな。
そもそも、何で私ここで働くことになったんだっけ?
『…そう言えば、私の身分証明っていつ発行されるんですか?』
いつの間にか右手に握られていた、火のついた煙草。
ライターの擦れる音に気がつかなかったなんて、余程自分のことで精一杯だったらしい。
思いっきり難しい顔をして、細く開けた口から煙を吐く。
それは夜の空気に冷やされた私の息と、酷似していた。
『んなもん、一生発行されねぇよ。』
残酷な宣告は、容赦なく私の心を荒らす。
震える声を押し込めて、いつも通りの澄ました声を、そんな宣告痛くないって声を準備しなくては。
急がなければと思うほど時間はあっと言う間に過ぎてしまって、彼の指に大人しく納まっている白い棒の先は短くなっていくばかり。
『…それは、私が疑わしいモノだからですか?』
『あぁ、傍に置いておかなきゃなんねぇ。』
『見張っておきたい、からですか?』
『あぁ、俺の手の届く範囲にいてもらわねぇと心配でね。』
自分の勘違いじゃないことを祈る。
だけど、最後の一言はとてつもなく甘い音で奏でられたもののように思えたのだ。
吸って吐いての往来で、侵食されて娯楽の意味をなさなくなった煙草を無造作に投げられる。
頼りない紅い火が描く緩やかな線が、月に照らされた白い地面に着地しようとした瞬間、強い衝撃に襲われた。
視界が一気に暗転する。
抱きしめられていると理解したのは、風に溶けた煙の匂いと忙しない鼓動を頬に感じたときだった。
『だから、消えるな。』
耳に落ちてくる優しい言葉たち。
『どこへも行くな。』
じんわりと伝わってくる自分以外の体温。
『傍にいろ。』
心が潰れそうなほどの柔らかい抱擁。
『そんで、出来れば笑ってくれ。』
ただ涙が溢れて、不自然に笑うことしかできなかった。
嬉しくて、愛しくて、切なくて。
即座に頷くことができない自分が、もどかしくて仕方なかった。
私が始めからここの世界の創作品だったら、何も考えずに満面の笑みを浮かべることができたのに。
きっと不細工な顔をしているはずの私を見て、土方さんは困ったように、だけど穏やかに笑ってくれた。
何度目か分からない、甘い胸の締め付けを感じた。
優しくし合うことを許した唇が、静かに触れた。
一片も欠けていない月が、私たちを見つめていた。
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