月光
★第58話 ずれる
なんだろう、頭が重い。
目を開けたくない。
だけど開けなくちゃいけない気がする。
そんなおかしな義務感に急かされて、微かにまぶたを動かした瞬間。
『…目、覚めたか。』
ほっと一息ついた、安心したような声。
私の目覚めを心待ちにしていたかのように、絶妙のタイミングで降ってきた言葉。
溶け込むように耳に入ってくる。
『…ひ…。』
何だろう。
顔が硬直していて、ヒリヒリする。
歯茎に麻酔を打たれたときと同じ感覚だ。
土方さんと言いたいのに、口が思うように動かない。
『無理にしゃべんな。』
優しく笑って、慣れた手つきで私の髪を梳くように撫ぜる。
以前まで触れることすらなかったのに、すごい進歩だ。
しばらく留守にするって言ってたのに、いつ帰ってきたのだろう。
一番に会いに来てくれたのなら、それはとても喜ばしいことで。
私の傍にいてくれたことにお礼を言いたい、おでこを覆うその手に触れたいと思うが、
身体がなかなか言うことを聞かない。
肩をもぞもぞさせている私に気づいたのか、ちょっと困ったような顔をしてずれた布団をかけ直してくれる。
些細な行動一つ一つに翻弄されて、いちいち顔が綻びそうになる。
しばらくお互い見つめ合ってほほ笑み合う。
とんだバカップルと言われても仕方のない光景だろうが、幸せなのだからしょうがない。
だんだんと体の自由がきくようになり、ずっと言いたかった一言を伝える。
『おかえりなさい。』
純粋に会えて嬉しい。
傍にいてくれて愛しい。
私の言葉と表情に少し土方さんは驚いていたけど、笑って返してくれた。
『…ただいま。』
『いつ帰ったのですか?』
『ついさっきだ。緊急の用があって。』
『そうですか、ご苦労様です。』
『お前が気にするようなことじゃねぇよ。』
頭頂部から覆うようにしていた手はだんだん下って来て、今は指で毛先を弄んでいる状態だ。
頬に触れそうで触れない手が、指が、もどかしくて愛しくてくすぐったい。
和やかな時間が流れる中、急に神妙な面持ちになった土方さんはこう切り出した。
『…お前、何でよのの部屋に一人でいたんだ?』
『…一人?』
そんなはずはない。
いつもより威勢のない悪態を突かれたあと、彼女の部屋で一緒にお茶を飲んで、
絹里さんという女性の昔話を聞いて、そして…。
『…土方さんは、“平間軽助”という男を、知っていますか?』
『…今日はもう寝ろ。』
静かに畳みかけられる自発的な休息を要求する言葉。
なぜそんなことを聞くの?
言わず仕舞に飲み込んだ一言。
深く追求してはいけないと、無意識のうちにストッパーが働いた。
『…はい。』
髪に触れる手は、相変わらず優しい。
『そろそろ仕事に戻る。お前はここでできるだけ安静にしてろ。』
声音を全く変えぬままで、滑らかな動きで踵を返す。
この部屋から出るなと言っているように聞こえるのは、裏をかきすぎであろうか。
平間の名を出した瞬間に、ほんのわずかだが止まったように見えた土方さんの動き。
気にし過ぎだと言われればそれまでだが、何かが狂い出したような気がする。
歯車が噛み合わない。
そんな危険信号を、小さなこの胸に感じた。
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